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1・日曜雑貨
日本の風呂用品特に網状の体を洗うタオル
洗濯する際に靴下等小物を入れる網状の袋
歯ブラシ・特に先が小さく硬いもの
ベビー綿棒(当地の綿棒は大きい)
歯磨き粉:普通のものは売っているが「つぶ塩」のようなチューブ入りは無い
香取線香(当地にもあるが日本のものは品質が違う)
化粧水(液体なので注意)
2・文房具
普通の鉛筆:南米の鉛筆は品質に問題。
シャープペンシル(特に太めの0.7、0.9:当地でも売っているが性能に問題、芯は売っている)
ホッチキス(当地のは大型で使い難い:針は売っている)
消しゴム(特に大きいのが良いでしょう。):当地の消しゴムは消えません。
ファイル(名刺入れなどの特別なもの)
A4の薄いノート:こちらのは厚めのものしか無い
この他日本の文具のレベルは高いので便利だと思ったものは持参されると良いでしょう。
3・衣類
下着類
靴下
スーツ・ワイシャツ(青山などで購入すると良いでしょう)
革靴:日本人の足は幅広なので当地の靴だと合わない
4・薬品
整腸剤(ビオフェルミン、正露丸など)
目薬(Vロートなど)
虫除けスプレー
ムヒ(スッティク状):これは土産にしても喜ばれるでしょう。
お部屋の4角にチュッとするだけで蚊に刺されない空間を作るスプレー(アース製薬):これは土産にしても喜ばれるでしょう。
サロンバス
オロナイン、キンカン
冷却ジェルシート
5・食品
缶や瓶に入っているものは出来るだけ避ける。液体は無理。量販店で売っている業務用の大きなアルミ袋に入っているものが良いでしょう。
(出来れば業務用)
昆布茶
中華あじ
ほんだし・昆布味:普通のほんだしは売っている。昆布味があると鍋物に使える。
カレー粉:ルーは嵩張るのでカレー粉を持参して料理すると良いでしょう。
杏仁豆腐の素
海苔(普通のもの・味付け海苔)
抹茶(飲むのにも、アイスクリームにも)
昆布(嵩張らない、持つのである程度持参すると良いでしょう)
袋入りのインスタント食品
たらこスパゲッティの素
麻婆茄子の素
浅漬けの素、漬物の素
ふりかけ・お茶漬けの素(売っていますが、種類は少なく高いです)
など
6・日本人・日系人へのお土産
普通にスーパーで売っている菓子や上記のようなインスタント食品など上記のものを参考にしていただければ良いでしょう。
※ よくお土産でいただくもの:虎屋の羊羹、日本茶、わさび漬け、高級和菓子(入れ物が大きく中身が少ない)、佃煮など
これはこれで嬉しいのですが、もっと実質本位のものが喜ばれると思います。
雑誌・漫画:成田の書店で週刊誌(週間ポスト、現代、、新潮、文春、アサヒ芸能、大衆、サピオ、など)、漫画雑誌(ビックコミックなど)を旅行中に読みそのまま日本人一世に渡すと喜ばれます。(これは嬉しいです)
ムヒ(スティック)や蚊取り線香なども良いでしょう。
参考・当地で手に入る日本食
インスタントラーメン、カップ麺(ブラジル製の日清、韓国製が多く出回っている)
日本米、豆腐、納豆、油揚げ、塩辛、味噌、醤油、さつま揚げ、こんにゃく(パラグアイで作っている)
日本で売っているような野菜(長ネギ、白菜、もやし、茄子、大根、ごぼう、茗荷、など)簡単に手に入ります。
日本酒、みりん、海苔の佃煮、米酢、ほんだしなどはブラジル製があり、それほどは高くないです。(酒、みりんなどはブラジルで三菱系の東山農事が作っています。)
せんべい、ふりかけ、お茶漬けの素、カレールー、つゆの素、等は日本製がありますが高いです。(永谷園お茶漬けとステーキ一枚が同じ値段)
そば、素麺、たくあんなどは韓国製がそれほど高くなく手に入ります。
日本のものではありませんが、肉まん、あんまんは中国人が作っています。(個人的に好きなのでよく食べます。)
うどんは売っていませんが、イタリア料理用の生麺は普通に「うどん」として使えます。
なお、割り箸:たくさんあります。普段使う塗り箸、客用の箸は持って来る方が良いでしょう。
電化製品
ほとんどの電化製品(電気釜、電気プレート、ポット等)は売られています。
http://www.geocities.jp/paraguayooit/tabi-003.html
高度成長、バブルの景気など日本経済は終戦後から1990年くらいまでオイルショックなど多少の経済後退期はありましたが、右肩上がりで成長し、米欧日の3極で世界経済が回っていた時代が長く続いていました。その後、経済が伸び悩み、それでもまた再度経済は成長すると考えていた人も居ましたが最近になり、財政の悪化し、現行の年金制度・医療福祉制度を維持するのも難しくなって来ている、少子高齢化が今後も少なくとも50年近くは進行し事態は悪化して行く、放射能の影響、電力不足、国際競争力の減退、食料・エネルギー不足への不安、新たな地震、火山の噴火への心配など多くの不安定要因を抱えて長期的な展望が見えない状況となっています。勿論個人レベルではしっかりと日本社会で伸びて行き将来に不安は無いと感じている方も居るでしょうが客観的に日本の置かれている現状を見ていますと将来に対して不安な想いを持っている方が次第に増えているのではないかと想像します。
このような状況の中、色々な形で日本を出て外国に住む人が増えているように見えます。外国で働く駐在員は減る傾向にありますが、全体としては外国に住む長期滞在者・永住者は増えているようで、日本からの派遣では無い、地元に根差した引っ越しが多くなっているものと推測します。引っ越しの内容は色々でしょう、大学等に留学の方、旅行を兼ねての長期滞在、外籠り、熟年の方のシルバー移住、そして働いて生活する本格的な引っ越し(移住)と様々でしょう。日本では「移住」という言葉に特別な意味があるように感じます。「思い切って日本を捨てて外国に骨を埋める」というような悲壮感が漂います。外国に住む、住む場所を日本国外に移す事を「移住」と捉えるのでは無く「引っ越し」と考えてみては如何でしょうか?「海外雄飛」などと言う時がありますが、日本での普通の市民が突然新しい土地で飛躍するというのは少々おかしな話で引っ越し先でも今までと同じような普通の市民となるだけだと思います。勿論引っ越した国で成功を収めて輝く方も居ますがそれは日本に居ても大きな成功を成し遂げる人も居る訳であり、何も「外国だから」では無いはずです。
さて、引っ越し先として日本の方に人気があるのがカナダ、米国、オーストラリア、ニュージーランド等の白人が主体の英語の国、そしてフィリピン、シンガポール、タイ、マレーシア、香港などの東南アジアでしょう。多くの方が希望する白人英語圏は永住査証、労働許可を取得に関しては特殊な技能、知識を有していないとなかなか難しく、人種的な偏見も根強いと思います。東南アジアは熟年シルバー移住の方には良いかも知れませんが人生これからという働く世代には外国人として生きなければならず日本人相手の商売をするなど仕事も限られてしまうのではないかと思います。若い方には余り向かないようにも見えます。このような国と比較して個人的には南米各国は比較的条件が揃っているので多くの人が希望するのでは無いかと思っていましたが、どうやらどの国も不人気のようです。多くの日本人が何故南米そしてパラグアイに目を向けないのか不思議に思い、機会ある毎に尋ねてますと「遠い」「情報が無い、あってもネガティブ情報ばかりで治安等に問題がある」「多くの移住者を出したが苦労ばかりであった」「貧困で日系人も多くの人が日本に出稼ぎに行っている」「言葉が出来ない」など否定的な意見が多くあるようで、どうやら多くの方にとってパラグアイなどは最初から引っ越し先の対象にはならないようです。
パラグアイは日本との永住協定が健在で条件さえ揃えば比較的簡単に永住査証を得る事が出来ます。労働許可は永住査証があれば不要で永住査証を取得さえ取得すれば一般のパラグアイ人と比較して不利益な事は全く無く、同じ土俵で生活する事が出来ます。その上、心強いのは日系人の存在で全国に約6千人の日本人永住者並びにその子孫が居ます。パラグアイにおける貢献度は大きく日本人である事で普通に生活をしていて差別を受ける事はまずありません。またほとんどの国民が欧州などからの移住者とその子孫なので、日本だからと言って特別な外国人と看做される事無く、社会の普通の構成メンバーと見てくれます。パラグアイは暮らし易い国である事は間違い無いと思います。最近になり、日本人の中にも引っ越し先としてパラグアイに注目する方で少しづつですが、出て来ているように見えます。下見に当地を訪問された方に話を伺うと「情報が無い」とのことを強調されます。また「想像していたのと全く異なる」という意見も多くありました。
パラグアイ引越し情報
毎年1月と7月の2回、パラグアイの日系社会持ち回りで少年野球大会が開催されています。今年は1月の大会がアスンシオンで開催されました。カテゴリーが2つあり、「小学生」が満13歳まで、「少年」が満16歳までとなり、暦年で計算します。今年の大会は少年が1995年1月1日~1997年12月31日まで生まれた子供でそれ以上は上のカテゴリーとなる 「青年」となり、1998年以降に生まれた人は小学生となります。人数が足りない等の理由で小学生カテゴリーの子を少年に入れる事は自由です。
開会式はビジャエリサにあるアスンシオン日本人会グラウンドで午前9時からパウロ・リチャードスポーツ大臣が列席される中開催されました。パラグアイ最大新聞「ABCコロール」においてパラグアイ野球連盟の大会として紹介されました。要するに日系の大会というだけでは無く全パラグアイの野球大会という位置付けです。
地方から来るチームは前日の夜に出発し夜中走り続けてやって着ます。到着すると直ぐに開会式、そして試合とハードな一日ですね。各チームで何語で話をしているのか傍で聞いてみますとアスンシオン、エンカルナシオン都市二チームはスペイン語、移住地のピラポ、ラパス、イグアスは主に日本語、そしてアマンバイはポルトガル語でした。ペドロファンカバジェロではスペイン語よりもむしろポルトガル語が日常語として使用されているのです。また非日系の中国系、現地の普通の方も増えて来ています。
優勝旗を見てみますと贈・岡林洋一とあります。岡林さんはヤクルトで1991年~1994年の間は毎年10勝以上を挙げ、チームのエースとして活躍されました。生まれはイグアス移住地で当地の少年野球で活躍され、14歳の時に高知県に引っ越しをされ、高知商業、専修大学を経てヤクルトに入団されました。1992年は15勝を挙げ西武との日本シリーズでも大活躍、その粘りは「パラグアイ育ち」にあるとされ、テレビの中継では「パラグアイの岡林」とのコメントを受けていました。時にはスペイン語で寝言を言っていたという逸話もあり、同世代には「パラやん」と呼ばれていたそうです。現在はヤクルトのスカウトとして活躍されています。ここに参加している少年たちの大先輩で、この中から第二の岡林が出て来るかも知れませんね。
大会は2日間の日程で行われ、初日の夕食は歓迎会となります。各地から集まった選手、父兄、関係者が一堂に会する大食事会です。初日ビジャ・エリサの日本人会グラウンドを使用したのはここで歓迎会を行う為でもあります。ただ翌日の少年の試合は朝7:30からで、試合が行われている時には既に準備にかからなければなりません。アスンシオンチームの選手の父母だけで準備を行うので本当に大変です。お父さん達はアサードを準備します。通常のアサードを焼く場所だけでは到底足りないのでアサードを焼く器具を幾つも並べての作業です。この日は最高気温が40度近くにまで上昇、その中でのアサードを作りは大変です。
初日はビジャ・エリサに在るアスンシオン日本人会グラウンドで開催されましたが、広さの関係で少年はカピアタにある天理教のグラウンドで開催されました。フェンスもある本格派の球場です。アスンシオン少年チームは選手が10人なので小学生を4名入れています。少年は小学生のカテゴリーでは参加しなかったアマンバイチームも参加し、7チームが2つの組に分かれて戦いました。第一球場ではアスンシオン、ピラポ西、アマンバイの3チーム、第二球場ではラパス、エンカルナシオン、イグアス、ピラポ東の4チームが戦いました。それぞれの勝者が最後に決勝を行いイグアスチームが優勝を飾りました。

(写真)アスンシオン少年チーム

(写真)アスンシオン少年チームの攻撃
少年野球・アスンシオンチーム
以前はアスンシオン・セントロに日本人向けのカラオケ店が数軒あり、日本人・日系人が夜くつろぐ場所として賑わっていましたが「紅とんぼ」が閉店して以来、そのような場所はありませんでした。スーパーマーケット「グアラニ」を経営されている山本さんがスーパーの奥にカラオケとファーストフードの店を開店されました。現在は木・金・土の週末三日間だけの営業ですが、団体として要望があれば他の日でも店を開ける事は可能なのだそうです。
スーパーマーケット・グアラニの奥、道を挟んで反対側に建物があります。下はファーストフード「なおみ」、上はカラオケ「ゆき」となっています。建物の奥の方はスーパーマーケットの事務所・倉庫などに利用されているようです。敷地は大きく駐車場も大きくとってあります。
1階のファーストフードは昼時にはかなりの混雑となるそうです。外には日替わり定食(11:30~15:00)が7千グアラニという看板がありました。日本円に換算しますと約150円ですね。2階は広いカラオケになっています。現在日本で主流となっている個室方式では無く、伝統的な広いサロンがあるタイプです。バー仕立てになっており酒類も提供していますが、山本さんは「家族で楽しんで欲しい」との事で大人だけでは無く子供も気軽に来られるスペースにしたいそうです。
カラオケ「ゆき」・ファーストフード「なおみ」
ボケロン県はチャコ地方の奥に位置するボリビアとの国境の県です。国土の60パーセントを占めるパラグアイ川の西側、西パラグアイ(チャコ)は行政的には僅か3つの県に分けられています。トランスチャコと呼ばれるボリビアまで通じる道路の奥の方がボケロン県で約2千人くらいの町が3つ(フィラデルフィア、ロマ・プラタ、ノイランド)あり、残りは広大な大地となっています。その中で行政の中心となり県庁舎、裁判所などがあるのがフィラデルフィアです。
同じメノニータなのですが、ロマ・プラタがカナダからの移住者を中心として作られたのに対してフィラデルフィアはソビエト連邦からの移住者を中心として1920年代に建設されました。ロマ・プラタと同様に共同組合(フェルンヘイム)が全ての土地を所有し、生産物を一括して取り扱っています。ロマ・プラタが商業の町に対してフィラデルフィアはボケロン県の県庁や裁判所があり、政治の町と言われています。ただ実質的な中心の共同組合の建物と県庁舎、市庁舎を比較しますと差は歴然としており、この地はパラグアイではありますが、共同組合を中心に動いている事が理解出来ます。
数年前までほとんど舗装が無かったでそうが、最近は舗装が進み中心街は舗装となっています。ただ確かにロマ・プラタと比較しますとメインストリートの商店も少なく静かな印象です。ドイツ系でパラグアイの地方に位置するボケロン県、日本からは余りにも遠い存在ですが、今後の発展余力を考えますと注目して行く必要があるように思います。
舗装されている道は僅かで中心部でもほとんどは土道です。アスンシオン等と比較しますと降水量が少なくこの二ヶ月雨らしい雨は無いそうで自動車が走行しますと埃がものすごいです。中央の公園には機関車などが展示されています。チャコ地方最初の鉄道は1927-28年にはカナダからの移住者を運び1930-32年にはソビエトからの亡命者を運び、1932-35年にはチャコ戦争で多くの兵士を輸送したとあります。
フィラデルフィア(ボケロン県・西パラグアイ・チャコ地方)

(写真:県庁舎)

(写真:チャコ地方で最初に走った機関車)
同じメノニータなのですが、ロマ・プラタがカナダからの移住者を中心として作られたのに対してフィラデルフィアはソビエト連邦からの移住者を中心として1920年代に建設されました。ロマ・プラタと同様に共同組合(フェルンヘイム)が全ての土地を所有し、生産物を一括して取り扱っています。ロマ・プラタが商業の町に対してフィラデルフィアはボケロン県の県庁や裁判所があり、政治の町と言われています。ただ実質的な中心の共同組合の建物と県庁舎、市庁舎を比較しますと差は歴然としており、この地はパラグアイではありますが、共同組合を中心に動いている事が理解出来ます。
数年前までほとんど舗装が無かったでそうが、最近は舗装が進み中心街は舗装となっています。ただ確かにロマ・プラタと比較しますとメインストリートの商店も少なく静かな印象です。ドイツ系でパラグアイの地方に位置するボケロン県、日本からは余りにも遠い存在ですが、今後の発展余力を考えますと注目して行く必要があるように思います。
舗装されている道は僅かで中心部でもほとんどは土道です。アスンシオン等と比較しますと降水量が少なくこの二ヶ月雨らしい雨は無いそうで自動車が走行しますと埃がものすごいです。中央の公園には機関車などが展示されています。チャコ地方最初の鉄道は1927-28年にはカナダからの移住者を運び1930-32年にはソビエトからの亡命者を運び、1932-35年にはチャコ戦争で多くの兵士を輸送したとあります。
フィラデルフィア(ボケロン県・西パラグアイ・チャコ地方)

(写真:県庁舎)

(写真:チャコ地方で最初に走った機関車)
14日に独立の革命が始まり15日の未明に終わったという事で14日と15日の両日が独立記念日になっていますが、その前日13日に街の中心に行きましたが大変な人出でした。パンテオンは綺麗に照明に照らし出され、青、赤など色が変わり非常に綺麗でした。


パラグアイ独立200周年


パラグアイ独立200周年
イグアスの和太鼓のレベルは相当なものとは聞いていましたが確かに素人の域を超えている印象を受けました。日頃の練習の成果なのでしょう。太鼓を叩く際の重心の低さには驚きました。出し物もバラエティーがあり、獅子舞の他、虎舞、剣舞、傘踊りなど多彩で約二時間近い公演はすばらしいものでした。パラグアイでここまでの域に達しているというのは驚きですね。


アスンシオンで行われた音楽会
独立記念日は5月15日ですが、革命は5月14日に始まりましたので5月14日もパラグアイの人は特別な日と考え、どこの都市にも「5月14日通り」があります。以前は両日ともに祝日であったそうですが、ストロエスネル時代に祝日の大幅削減が断行され、その際に5月14日は外され、現在は5月15日のみが祝日となっています。今年は独立200周年という特別な年という事もあり、5月14日も今年限りの祝日としようという事になりましたが、今年は14日が土曜日、15日が日曜日に当たり週休2日の働く人にとっては特別な休みは無しという事になるので政府は特別に13日の金曜日を祝日とするよう政令を準備しましたが、むしろ16日(月)を特別の休みにしようという声が多くなり結局16日(月)は特別の休み、要するにハッピーマンデーになりました。
記念式典が挙行される14日、15日を一週間前に控え、7日(土)はセントロでは準備が進められていました。道路の補修、塗装などの作業があちらこちらで進められていました。街では多くの場所で国旗などが飾り付けられ、祝賀ムードが高まって来ています。



独立200周年
記念式典が挙行される14日、15日を一週間前に控え、7日(土)はセントロでは準備が進められていました。道路の補修、塗装などの作業があちらこちらで進められていました。街では多くの場所で国旗などが飾り付けられ、祝賀ムードが高まって来ています。



独立200周年
フォルモサ市(FORMOSA)はアルゼンチン東北部に位置するフォルモサ州の州都です。首都ブエノス・アイレスからは千キロ以上離れていますがパラグアイは近く対岸のアルベルディは目の前に見えます。またパラグアイの首都であるアスンシオン市までは直線距離で約100キロほど、陸路で2時間程のところにあります。アスンシオン市から一番近い都会はこのフォルモサ市という事になります。アスンシオンから直線距離ですとコロネル・オビエドやビジャリカより近い位置にあります。人口は20万人を少し超える程度ですが、なかなか賑やかな都市らしい街です。ただ、広々とした平地にあり、拡大する余地が幾らでもある為に市街地は人口の割には広く、またほとんど高い建物もありません。日本から離れており、旅行するにも情報も無い、特に目立つ名所も無いので訪問する人も少ないようです。実際に訪問しますと活気があり、安全で面白い都市でです、長期に南米を旅行する際にはアスンシオンからもしくはアスンシオンへ向かう際に立ち寄ると良いでしょう。パラグアイ特にアスンシオン市に住んでいる方、アスンシオンを訪問する方には1泊2日で行けますので是非訪問して欲しいものですね。
夜のコスタネラ(河岸)は多くの人で賑わいます。
フォルモサ-01


夜のコスタネラ(河岸)は多くの人で賑わいます。
フォルモサ-01


パラグアイとアルゼンチンの国境は基本的にはピルコマヨ川ですが、河口付近では真っ直ぐな本流では無く旧河川が国境となっており、蛇行した国境線となっています。現在は小川となっているこの川を挟みパラグアイ側はナナワという人口5千程の町になっており、クロリンダにくっついているように存在しています。
ここには敢えて自動車が通行出来る橋を架けずに歩行者のみが通行出来る橋を架けているだけで自動車で行く場合には大きく迂回して行く必要があります。クロリンダ市のセントロからアスンシオン市の大統領府までは僅か7キロですがアスンシオン市から自動車で行く場合には大きく迂回して50キロ近くを走行しなけば行けないようになっています。自動車で越境する場合にはアルゼンチンの国境検査は厳しく時間がかかり、実際にアスンシオン市からクロリンダ市まで自動車で行く場合には2時間近くかかります。将来アルゼンチンとパラグアイの往来に関して自由度が増し、橋でも架かりますとクロリンダはアスンシオンの都市圏として大発展を遂げる可能性を秘めています。
写真は手前がアルゼンチン側、小川の向こうはパラグアイ側


クロリンダ市(フォルモサ州)
世界各地にある「ワールド・トレード・センター」をアスンシオンに建設する計画が具体化し、プロジェクトの紹介がアスンシオン市内でルゴ大統領、フランコ副大統領、サマニエゴアスンシオン市長などが出席して開催されました。
計画は大手ディベロッパーである「ゴンサレス・アコスタ社」が中心となりショッピング・デル・ソルの向かいの土地に4棟のオフィスビルを建設するというもので各棟20階建てとし、千台の駐車場スペースを用意するというものです。投資額は5千万ドル、ビルで働く人の数は2千人と予想されています。



4年目となりすっかり恒例行事という印象の高知県人会館の「よさこいバザー」、都道府県単位では北海道の「どさんこバザー」と共にアスンシオン日系社会の中ですっかり定着した印象があります。定番の焼きそば、ヤキトリ、うどん、巻き寿司、春巻き、餃子、たこやき等の他にサンマ焼きなどもあります。天気にも恵まれ多くの人で賑わっていました。

会館




「パラグアイを知るための50章」(明石書店:2011年1月15日初版)の中の35章、48章、49章、50章の4章を担当
35章:パラグアイにおける日系社会(3)現状と展望
48章:歴史的な政権交代(2008年大統領選挙を振り返って)
49章:未来の穀物供給国(継続的な食料供給が可能なパラグアイ)
50章:パラグアイと経済援助(最大の援助国は日本)
この本はパラグアイの一般的な紹介、50章の中の4章を担当しました。この本は歴史に関する章が多い中、当方の担当は主に現代そして未来に繋がる章です。
http://www.geocities.jp/paraguaysaga/masukomi-001.html

35章:パラグアイにおける日系社会(3)現状と展望
48章:歴史的な政権交代(2008年大統領選挙を振り返って)
49章:未来の穀物供給国(継続的な食料供給が可能なパラグアイ)
50章:パラグアイと経済援助(最大の援助国は日本)
この本はパラグアイの一般的な紹介、50章の中の4章を担当しました。この本は歴史に関する章が多い中、当方の担当は主に現代そして未来に繋がる章です。
http://www.geocities.jp/paraguaysaga/masukomi-001.html

31日木曜日に予定より多少遅れてコンサートが開催されました。場所はフェルナンド・デ・ラ・モラ市の市役所の隣にある会館で市長の決断で無料提供していただいたそうです。フランコ副大統領も家族、スタッフの皆さんと共に来場されました。フランコ副大統領は「日本は確かに遠い国ではあるが今までパラグアイに多大な援助をしてくれた、累計総額では全体の40%から50%にもなる」とパラグアイへの日本の貢献を強調されていました。
全部で20組以上が出演するというパラグアイ・フォルクロ-レ総出演という感じで、一組の持ち時間は10分ということのようでしたが、かなりオーバーするアーチストも居ました。パラグアイ音楽は勿論、マルティン・ポルティージョはアルパで「川の流れのように」そしてアメリカンタは日本語で「世界で一つだけの花」を歌っていました。主催された日下部由美さん、エンリケ・カレーラさん、松木ありささんは開催を決めて僅か10日でのチャリティーコンサートの開催、多くの困難があったと思いますがやり遂げられた事は素晴らしい事であると思います。なお、ここでの義捐金はイグアス移住地で作られた大豆を日本に持って行きそこで豆腐を作りそれを被災者に届けるという事のようです。日本から来られた皆さんは自分達でこの豆腐を被災者に届けたいとの事でした。
出演はアスンシオン市のバレー団と日本からの日下部由美さん・本間さん、そしてソンリサ(エンリケ・カレーラさんと松木ありささん)、石井さんでした。照明などの演出も良く来週の公演に向けて忙しい中皆さんすばらしい演奏を披露されました。
日下部さんと本間さん

エンリケさん、ありささん、石井さん

日下部さんと本間さん

エンリケさん、ありささん、石井さん

パラグアイに滞在している日本のアルパ奏者の日下部由美さんとエンリケ・カレーラ、松木ありさご夫妻が中心となりチャリティーコンサートが開催される事になりました。
日本の未曾有の大災害に、何かパラグアイで出来ることを、と考えておりましたが、友人に地元の音楽家が多いので、彼らに頼んでチャリティーコンサートを企画して、演奏をお願いすることにしました。同じくアスンシオンに滞在中の日本在住アルパ奏者のエンリケ・カレーラ、松木ありささんが協力を申し出てくださり三人でとにかく頑張ることになりました。あちこち場所を探し回っていましたが、彼らのおかげで、急なことにも関わらず、アスンシオン市の隣、フェルナンド・デ・ラ・モーラ市立劇場を無料で貸していただけることになりました。
日時は3月31日(木)19時から入場料は25000グアラニーを考えています。在パラグアイ日本大使館が義援金の口座をひらいてくれましたので、そちらに収益金の全額を寄付します。昨日三人で友人のアーティストに連絡をとりまくって今現在20組ほどの演奏家(アルパ奏者、歌のグループなど)と司会を無報酬で引き受けてくれる方々が集まりました。あとは当日の運営をお手伝いいただけるボランティアの方、(お金の管理が重要で大変です・・・)照明PAの業者(なるべく安く、できれば無料で)を探しています。
フェルナンド・デ・ラ・モーラ市の市長さんのお話だと1000人は収容できるそうです。高望みかもしれませんが満杯にしたいです。集客が一番の課題なので、是非とも皆さまのご協力をお願いいたします。一人でも多くの方にこちらのコンサートの告知をお願いできますか?またなにぶん外国の土地で不慣れなことぱかりですのでよいアイディアかあれば教えていただければ本当に助かります。
パラグアイの新しいユニフォームのお披露目
今年開催される予定の南米選手権(アメリカ・カップ)を前にパラグアイの新しいユニフォームのお披露目がユニフォームを作り販売しているアディーダスの主催により南米サッカー連盟(コンメボル)行われました。パラグアイは南米選手権で過去2回の優勝があります(1953・ペルー大会・1979年・ホーム&アウェー方式)がありますが、1979年優勝時のメンバーが招待されました。そしてクライマックスは新しいユニフォームの披露で3選手がユニフォームのシャツを着て登場しました。
デザインは当然ながら赤と白の縦のストライプで大きな変化は無く、正直現在のものと何が違うのか分かりませんでした。今年の南米選手権・アルゼンチン大会には日本が招待されていますが、東北関東大震災が起き、返上しようという声もあり、参加が微妙な状況となっているのは気掛かりです。
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http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/4729/sports-3.html
披露は南米サッカー連盟で行われました。


南米選手権1979年優勝メンバー

新しいユニフォーム

今年開催される予定の南米選手権(アメリカ・カップ)を前にパラグアイの新しいユニフォームのお披露目がユニフォームを作り販売しているアディーダスの主催により南米サッカー連盟(コンメボル)行われました。パラグアイは南米選手権で過去2回の優勝があります(1953・ペルー大会・1979年・ホーム&アウェー方式)がありますが、1979年優勝時のメンバーが招待されました。そしてクライマックスは新しいユニフォームの披露で3選手がユニフォームのシャツを着て登場しました。
デザインは当然ながら赤と白の縦のストライプで大きな変化は無く、正直現在のものと何が違うのか分かりませんでした。今年の南米選手権・アルゼンチン大会には日本が招待されていますが、東北関東大震災が起き、返上しようという声もあり、参加が微妙な状況となっているのは気掛かりです。
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http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/4729/sports-3.html
披露は南米サッカー連盟で行われました。


南米選手権1979年優勝メンバー

新しいユニフォーム

パラグアイ生まれで国籍留保をし日本とパラグアイの両方の国籍を有する上野通明さんが若手音楽家の登竜門とも言えるチャイコフスキー国際コンクールで日本人として初めて、パラグアイ人としても初めて優勝を飾りました。
(上野通明さん略歴)
1995年11月、パラグアイ国アスンシオン市に生まれる。1998年日本に移り、「ヨーヨーマ」が演奏するバッハの曲を見ながらチェロに魅了され、5才より馬場省一先生に師事しチェロを始める。
2001年よりスペイン・バルセロナに在住し、イニアキ・エチェパレ先生に師事。2002年、バルセロナ音楽学校・コルデス・ジュニア・コンクール第2位。
2003年姉二人(ピアノ、バイオリン)とトリオ「プチ・アマデウス」を組み、スペインで開催されたサン・アナスタシ室内樂コンクール第1位、アルジャウ・カタロニア若い演奏家の為のコンクール弦楽器部門第1位、同室内樂部門1位。同年バルセロナで開催された第1回アジアフェスティバルに招かれ参加。
2004年、世界遺産のカタロニア音楽堂にて姉二人とともに「プチ・アマデウス」としてコンサートを開く。 同年7月、日本に活動の場を移し、桐朋学園大学教授、毛利伯郎先生に師事。
2006年、第5回泉の森ジュニア・チェロ・コンクール銀賞( 最高位 )、第22回こども定期演奏会に参加。 2007年、第8回 日本演奏家コンクール第1位。10月、東京サントリー・ホールにて指揮者の大友直人氏による指揮で、東京交響楽団と共演。
2009年6月、韓国で開催された第6回チャイコフスキー・ジュニア・コンクール(チェロ部門)第1位獲得。パラグアイ人として、また、日本人として1位になったのは全部門を通じて初めて。

(上野通明さん略歴)
1995年11月、パラグアイ国アスンシオン市に生まれる。1998年日本に移り、「ヨーヨーマ」が演奏するバッハの曲を見ながらチェロに魅了され、5才より馬場省一先生に師事しチェロを始める。
2001年よりスペイン・バルセロナに在住し、イニアキ・エチェパレ先生に師事。2002年、バルセロナ音楽学校・コルデス・ジュニア・コンクール第2位。
2003年姉二人(ピアノ、バイオリン)とトリオ「プチ・アマデウス」を組み、スペインで開催されたサン・アナスタシ室内樂コンクール第1位、アルジャウ・カタロニア若い演奏家の為のコンクール弦楽器部門第1位、同室内樂部門1位。同年バルセロナで開催された第1回アジアフェスティバルに招かれ参加。
2004年、世界遺産のカタロニア音楽堂にて姉二人とともに「プチ・アマデウス」としてコンサートを開く。 同年7月、日本に活動の場を移し、桐朋学園大学教授、毛利伯郎先生に師事。
2006年、第5回泉の森ジュニア・チェロ・コンクール銀賞( 最高位 )、第22回こども定期演奏会に参加。 2007年、第8回 日本演奏家コンクール第1位。10月、東京サントリー・ホールにて指揮者の大友直人氏による指揮で、東京交響楽団と共演。
2009年6月、韓国で開催された第6回チャイコフスキー・ジュニア・コンクール(チェロ部門)第1位獲得。パラグアイ人として、また、日本人として1位になったのは全部門を通じて初めて。

パラグアイ人のエリートに対する見方はどのようなものなのでしょう。まず日本の場合を考えてみますと日本人のエリートに対するイメージは多分「一流大学を出て中央官庁もしくは一流企業に勤務いしている人」というようなものでしょう、そこに行けばエリートが集団を作りお互いに競い合いながら高度な業務をこなしているというようなものでしょう。一流大学も一流会社も特に定義があるわけではありませんが、メディアなどを通じてある程度序列化が進み、社会的な勝組と見なされ若い人達はエリートになる事を目指しているのでしょう。昔と比較しますと大分緩和されたとは言え激しい受験競争があるのはエリートを目指す戦いが存在するからなのでしょう。一旦、エリートとなりますと自他ともに意識し、日常の行動にも節度を求められ、毎日を切磋琢磨しながら生きて行くというイメージがあります。このエリートの概念には収入との大きな関連は無く、あくまで社会的な立場が重要であるよに思います。エリートを目指すのは社会的な勝者を目指しているもので、当然社会的な地位が高ければ収入も多くなりますが金銭はどちらかと言いますと副次的なもので、金が目的では無い点が少々特殊なように思います。
パラグアイは貧富の差が大きい国ですので社会的な勝者と敗者がはっきりと分かれていると言えます。金持ちと貧乏という概念は国民誰もがはっきりと持っていますが、エリートと非エリートという概念が無いように見えます。一つにはエリート集団が無い事が挙げられます。大企業が存在しないので雇用されているサラリーマンでエリートという層が存在しません。パラグアイでは激しい受験競争は余り目立ちません、確かにアスンシオン大学医学部のように受験競争が激しい場合はありますが、どちからと言いますとこれは例外であり、私立大学など大体の場合にはそれ程激しい競争はありません。そもそも日本で考えるようなエリート集団が存在しないので目指すモチベーションが無いようです。官庁も日本のような定期採用は無く、どちからと言いますとほとんどが縁故採用という感じですので個々では能力の高い人が居ますが優秀な人が集団を作っているという印象ではありません。これに対して金持ちと貧乏人の差は歴然としていて、大人になるに従い自分がどちらの層に属しているのかはっきりと分かります。都市部と農村部との格差は大きいものがあり、都市の中でも富裕層と貧困層の格差は大きいものがあります。貧困層の多くの人はこれは運の問題で富裕層は楽をして金持ちになっていると考えているように見えます。確かにある程度生まれで将来の所得が決まり、また貧困層の人が富裕層の生活を見る場面は運転手もしくはお手伝いさんというような職業でしょうが、そこでの富裕層の人は確かに楽をしている事でしょう。富裕層の人はそのような人には自分の重要な部分は見せないでしょうし、また見せる必要もないからで主にオフタイムの時間にこのよう人達と一緒に居る事が多いと考えられます。オフタイムしか見ないのでこのような人達は「自分達は一所懸命働いているのに雇用者はぐうたらしている」と考える事でしょう。
ではパラグアイ人に「エリート」というのはどのような人なのか尋ねるとどのような答えが返って来るのでしょう、「大きな牧場と幾つかの企業を所有し、センテナリオのような有名クラブに所属し高級車を数台所有し、ブラジルもしくはウルグアイの海岸に別荘を持ち年に数回はマイアミに出掛ける人」というようなものでしょう。そこには努力して得るものという概念が無く世襲で生れ付き得られるものというイメージがあります、これはエリートでは無く金持ちのイメージでそもそもエリート層というものが存在しないので想像が出来ないというのが正しいのでしょう。不幸にもそのような恵まれた境遇に生まれなかった大多数の人達は不平不満を口にしながら何も努力もせず、神から降って来る幸運をただ待ち、時には政府に文句を付け、「自分達にも何かくれ」と要求を言うだけという事になります。このような意識の人達に何かを与えてもそこから生まれるものは無く余り効果は期待出来ないのかも知れません。その中で向上心のある人は特殊な技能、職種に付き立身出世を目指します。能力の高い人は猛烈に勉強をし、特に優秀な人は本当の意味でのエリートを目指して国外に行くケースもあるようです。また苦学を続け官庁や企業等で能力を発揮し社会の下支えとなっている人も多く居ます、確かに最近はこのような人達がかなり増えて中間層を築き始めているように見えます。また中には自分の不遇な生まれから社会に対する復讐心を抱く人も居て、プラス思考で社会に貢献する事を目指すのでは無く悪徳弁護士や賄賂をせびるような警官になるというケースもあるように見えます。
貧困から抜け出す、社会のレベルを上げて行くにはしっかりとしたエリート集団を築く事が重要なファクターではないかと思います。日本が明治維新以降、発展をを遂げたのは若い人にエリートのイメージを植え付け、努力をすれば誰でもエリートになれると競争をさせた事にあるように思います。明治の高級軍人には外様の藩の人が数多く居ますし、試験を突破すれば誰でも高級官僚の道が開けていました。出自を問わず能力があれば登用する事で日本は発展を遂げて来ました。パラグアイでは人口が増加し経済が大きくなり次第に社会が熟成して来ています。現在育ちつつある中間層がその活躍している企業、官庁の中でエリート集団を形成し、本人達がやりがいを持ち、業務の成果が社会に見える形で示す事が出来、それに伴う安定した収入を得られるようになればモチベーションが出て、若い人の多くの人が勉強をし、社会が活性化するのではないかと期待しています。金持ちになりたいという意識をエリートになりたいという気持ちに変える事が出来れば社会はより活性化するのではないかと期待しています。
昨年の4月20日に大統領選挙が行われ、劇的な政権交代が決まり、ルゴ氏が大統領に選出され、それから本日で丁度一年が経過しました。ルゴ大統領に関する記念すべき21日の朝のビックニュースは一年前の出来事を祝うのでは無く、もう一人隠し子が居たという話で、6歳になるその子の母親はルゴ大統領に父親であると認めるよう訴えを提出し、これが大きく取り上げられていました。22日のABCコロール紙朝刊には3人目の子供が居る事が報じられていました。この母親は特に子供の認知を求める事はしないとの事です。聖職者と言っても男性であり子供を作るのは普通と認容する意見もありますが、3人の女性との間で子供を為したという事は深い関係の恋中であった女性がいったい何人居たのか、と疑問いう疑問が出て来ます。ルゴの子供に関しては6人までは確認出来ている、サンペドロに6歳から10歳くらいになる子が居る、スペイン、エクアドルなど国外にも居るなど色々な噂が飛び交っています。
もう一つの話題は大統領の就任式の翌日、昨年の8月16日にヴェネズエラ・チャベス大統領との会談があり、その際にパラグアイ石油公団の運営をベネズエラに委ねる趣旨の合意文章に大統領として署名していると疑念を持たれている事です。エネルギーは国家の主権に関わる大事であり、これを他国に全面的に任せてしまう事に各方面から大きな批判、反発が出ています。国会の批准が無ければ効力を発しないという事ですが、国家とは何か、政治とは何か、大統領は何を為すべきかという基本が分かっていないのではないかと疑問を投げかけられ大統領としての資質が問われています。マスコミの追及に対してルゴ政権はこの条約の署名に対して肯定しておらず、むしろ隠すようにしていますが、新聞報道に拠れば上記の条約はヴェネズエラでは既に昨年10月24日に国会で批准され、政令として発布されているそうで、ヴェネズエラ側は「PDVSA Paraguay SA」という会社の設立準備を行い着々と進めています。計画には電気を含むエネルギー全体を統括するとされているそうです。
この一年間、ルゴ大統領は就任前から専ら外遊に多くの時間を割き腰を落ち着けて政策を練る時間が無かったように見えます。当選から一年間で外国に行った回数は27回に上り、地球5周分飛行機に乗った計算になるのだそうで、ABC紙がまとめた表があり、中にはウルグアイに行った目的を見ますとサッカーの観戦などというのもあります。専用機が欲しい等と発言し多くの国民から顰蹙をかい、マスコミから攻撃の格好の材料とされる場面もありました。さすがに相次ぐスキャンダルに追われており、28回目、この木曜日からワシントンに行く旅行の予定はキャンセルになったようです。それにしてもこれ程何の用があって出掛けるのでしょうね。これほど多くの時間を費やしていますが、当初目玉として挙げていた公約であるイタイプダムの問題ではブラジルからは全く無視されている状況で再交渉のテーブルに着く事さえ出来ていません。また、胡麻農家に対して支援を行う為に基金を創設して多額の公金を支出しようとしましたが、基金の母体が不透明な団体であり、資金を出すには不適切、そもそも何故特別に資金を出すのか問われて頓挫してしまいました。選挙で支持を取り付ける際に密約があったのではないか何らかの裏取引があるのではないかと疑われています。
当選した際には貧困層は富の再分配と雇用の確保を期待し、一般市民は社会の上から下まではびこっている不正を根絶し公正で安全な社会の実現を望んでいたはずで、その双方共が不満を募らせているのが実情のように見えます。一番の支持者である地方の貧困層、特に土地無し農民の人達は農地を与えてもらうなど目に見える形での成果を求めているように見えます。特に地盤である北部地方を中心に熱心な支持者はまだ程度の数は存在はしいるのでしょうが、「何かが変わる」と期待しており、何時まで彼らの歓心を繋ぎ止める事が出来るのか具体的な政策を示す必要が迫っているように思います。
盟友であったはずの与党内最大勢力の青党・フランコ副大統領は20日に開催された一年前の選挙勝利を祝う集会に檀上に呼ばれなかったと不満を漏らしており、同党のヘイセケ商工大臣を突然解任するなど、連立与党の中でも次第に溝が深まっているようです。大統領の政治的な求心力は急速に下がっています。「サンダル履きの清貧な聖職者」、私利私欲の無い人物というイメージで当選したルゴ大統領ですが、人の話特に自分と違った立場の人の話には余り耳を傾けず、旅行と女性が大好きである事が明白になり国民の見方に大きく変化が出ている事は間違いないようです。当選から一年が経過し、個人的なスキャンダル、エネルギー政策の根幹に関わる問題など難問が山積しており、与党内が一枚岩とは言えない中で野党勢力などから厳しく追及されるのは必至であり、窮地に立つ大統領、次第に追い込まれて行く事でしょう。国民大多数特に女性の反発は大きく、これからは国内のどこかに視察に訪れたとしても市民の目線は今までとは異なるものとなり、ずっと冷ややかなものとなるでしょう、セレモニーなどがあっても大統領を招待する事さえ躊躇するようになり、敬虔なカトリックである近隣諸国を訪問しても後ろ指をさされるものと想像します。この難局をどのように対応するのか、支持者そして国民にどのように説明をするのか、誤魔化さずに問題に対して真摯に受け止め正面から解決に乗り出すのか注目しています。
友人が幾つかの巷の「チステ」(ジョークもしくはエスプリに当たるもの)を紹介してくれました。
チステ-01
“チリリーーン”
“はいこちらブルヴィチャロガ(Mburuvicha Roga)パラグアイ大統領公邸で御座います。
ルーゴ大統領の息子さんなら1番を、娘さんなら2番を、大統領の子供を目下妊娠中なら3番を、これから大統領の子供を授かりたい方は4番をお回し下さい。
お電話有難うございました。”
チステ-02
「おい、ルーゴは尼さん達とも深い関係があったというぞ。子供も居るらしい」
「子供の認知をするのか?」
「したらルーゴも尼さんも楽園から追放だとさ。」
チステ-03
大統領府からのお知らせです。XX日XX時からXX広場にて関係ある女性全員を対象とする特別ミサが開催されますのでお集まり下さい。
もう一つの話題は大統領の就任式の翌日、昨年の8月16日にヴェネズエラ・チャベス大統領との会談があり、その際にパラグアイ石油公団の運営をベネズエラに委ねる趣旨の合意文章に大統領として署名していると疑念を持たれている事です。エネルギーは国家の主権に関わる大事であり、これを他国に全面的に任せてしまう事に各方面から大きな批判、反発が出ています。国会の批准が無ければ効力を発しないという事ですが、国家とは何か、政治とは何か、大統領は何を為すべきかという基本が分かっていないのではないかと疑問を投げかけられ大統領としての資質が問われています。マスコミの追及に対してルゴ政権はこの条約の署名に対して肯定しておらず、むしろ隠すようにしていますが、新聞報道に拠れば上記の条約はヴェネズエラでは既に昨年10月24日に国会で批准され、政令として発布されているそうで、ヴェネズエラ側は「PDVSA Paraguay SA」という会社の設立準備を行い着々と進めています。計画には電気を含むエネルギー全体を統括するとされているそうです。
この一年間、ルゴ大統領は就任前から専ら外遊に多くの時間を割き腰を落ち着けて政策を練る時間が無かったように見えます。当選から一年間で外国に行った回数は27回に上り、地球5周分飛行機に乗った計算になるのだそうで、ABC紙がまとめた表があり、中にはウルグアイに行った目的を見ますとサッカーの観戦などというのもあります。専用機が欲しい等と発言し多くの国民から顰蹙をかい、マスコミから攻撃の格好の材料とされる場面もありました。さすがに相次ぐスキャンダルに追われており、28回目、この木曜日からワシントンに行く旅行の予定はキャンセルになったようです。それにしてもこれ程何の用があって出掛けるのでしょうね。これほど多くの時間を費やしていますが、当初目玉として挙げていた公約であるイタイプダムの問題ではブラジルからは全く無視されている状況で再交渉のテーブルに着く事さえ出来ていません。また、胡麻農家に対して支援を行う為に基金を創設して多額の公金を支出しようとしましたが、基金の母体が不透明な団体であり、資金を出すには不適切、そもそも何故特別に資金を出すのか問われて頓挫してしまいました。選挙で支持を取り付ける際に密約があったのではないか何らかの裏取引があるのではないかと疑われています。
当選した際には貧困層は富の再分配と雇用の確保を期待し、一般市民は社会の上から下まではびこっている不正を根絶し公正で安全な社会の実現を望んでいたはずで、その双方共が不満を募らせているのが実情のように見えます。一番の支持者である地方の貧困層、特に土地無し農民の人達は農地を与えてもらうなど目に見える形での成果を求めているように見えます。特に地盤である北部地方を中心に熱心な支持者はまだ程度の数は存在はしいるのでしょうが、「何かが変わる」と期待しており、何時まで彼らの歓心を繋ぎ止める事が出来るのか具体的な政策を示す必要が迫っているように思います。
盟友であったはずの与党内最大勢力の青党・フランコ副大統領は20日に開催された一年前の選挙勝利を祝う集会に檀上に呼ばれなかったと不満を漏らしており、同党のヘイセケ商工大臣を突然解任するなど、連立与党の中でも次第に溝が深まっているようです。大統領の政治的な求心力は急速に下がっています。「サンダル履きの清貧な聖職者」、私利私欲の無い人物というイメージで当選したルゴ大統領ですが、人の話特に自分と違った立場の人の話には余り耳を傾けず、旅行と女性が大好きである事が明白になり国民の見方に大きく変化が出ている事は間違いないようです。当選から一年が経過し、個人的なスキャンダル、エネルギー政策の根幹に関わる問題など難問が山積しており、与党内が一枚岩とは言えない中で野党勢力などから厳しく追及されるのは必至であり、窮地に立つ大統領、次第に追い込まれて行く事でしょう。国民大多数特に女性の反発は大きく、これからは国内のどこかに視察に訪れたとしても市民の目線は今までとは異なるものとなり、ずっと冷ややかなものとなるでしょう、セレモニーなどがあっても大統領を招待する事さえ躊躇するようになり、敬虔なカトリックである近隣諸国を訪問しても後ろ指をさされるものと想像します。この難局をどのように対応するのか、支持者そして国民にどのように説明をするのか、誤魔化さずに問題に対して真摯に受け止め正面から解決に乗り出すのか注目しています。
友人が幾つかの巷の「チステ」(ジョークもしくはエスプリに当たるもの)を紹介してくれました。
チステ-01
“チリリーーン”
“はいこちらブルヴィチャロガ(Mburuvicha Roga)パラグアイ大統領公邸で御座います。
ルーゴ大統領の息子さんなら1番を、娘さんなら2番を、大統領の子供を目下妊娠中なら3番を、これから大統領の子供を授かりたい方は4番をお回し下さい。
お電話有難うございました。”
チステ-02
「おい、ルーゴは尼さん達とも深い関係があったというぞ。子供も居るらしい」
「子供の認知をするのか?」
「したらルーゴも尼さんも楽園から追放だとさ。」
チステ-03
大統領府からのお知らせです。XX日XX時からXX広場にて関係ある女性全員を対象とする特別ミサが開催されますのでお集まり下さい。
パラグアイ首都アスンシオンと一番似ている都市はどこかと言いますとコリエンテス市である事は間違い無いでしょう。アスンシオン市はラプラタ流域の中心都市であった当時、「母なる都市」と呼ばれここを拠点に多くの都市が作られ、その中の一つがコリエンテスです。同時期に作られたことと、地形が非常に似ているので今でも似ているという訳です。同じ高度からの両都市を眺めますとはっきりと分かります。河が北から南に蛇行して流れ半島のようになっています。アスンシオンから植民を目的に開拓に行った人達は良く似ている地形を見つけて喜んだ事でしょう。道路の区画も幅も同じように作られたのだと思います。
その後、コリエンテス市はアルゼンチンの一地方都市となり、アスンシオン市はパラグアイの首都となりました。現在はコリエンテス市は人口30万人強、アスンシオン市は都市圏で二百万人に達する規模に成長していますが、セントロ・旧市街地に限れば大体同じ大さです。コリテンテスは要するにアスンシオンをもしアルゼンチンにしたらどのようになるのかという事を示しているように見えます。コリエンテスを訪問して感じたのは実に似ているという事で時々アスンシオンを歩いているのかと錯覚を起こす程です。コリエンテスの方が人口が少ない事もあってのんびりとした雰囲気があり、アルゼンチンのお洒落な雰囲気もあります。
一番の違い、コリエンテスを訪問した感じたのは河岸がしっかりと利用されているという事です。アスンシオンは河岸は不法住居の貧困層に占領されてしまっており、河岸を行く道路も無くほとんど利用されていないのに対してコリエンテスはしっかりと活用されています。河岸に沿って中央分離帯がある大きな道路があり、散策や河岸で遊べるようになっており、市民の憩いのスペースとなっています。道路の反対側にはレストランなどが多くあり魅力的な観光スポットとなっています。アスンシオンも河岸をしっかりと利用する事を考えるべきでしょう。もう一つ感心したのは歩行者専用の商店街がある事です。市民が歩いてショッピングや軽食喫茶を楽しめるようになっており、家族連れや若い人のグループで賑わっています。アスンシオンのセントロには歩いて散策して楽しむ場所はありませんのでこれを見ますとパルマ通りから自動車を完全に締め出し歩行者専用の道路にするべきであると思います。両都市を見る限りでは残念ながら計画的に住み良い都市にする知恵はアルゼンチンの方が勝っているように見えます。
コリエンテスとアスンシオンのもう一つの違いはコリエンテスでは対岸まで橋があり、アスンシオンには無い事です。アスンシオンの場合には反対側に行く為にはセントロから20キロも離れた橋を利用するしかありませんが、コリエンテスの場合には市街地の中心から直ぐに反対側に行く事が可能です。アスンシオンの場合には川幅がコリエンテスの半分しか無いにも関わらず橋がありません。これは国防上の問題からなのでしょう。アスンシオンセントロの反対側の南半分はアルゼンチン領となっています。要するにセントロからアルゼンチンに国境を跨ぐ橋を架ける事は左程難しい事ではありません。現在はアルゼンチンに行くには対岸にあるセントロから直線距離で2,3キロの国境まで行くのに50キロ程迂回して行かなくてはなりません、そして入国には煩雑な手続きが必要でアルゼンチンに簡単には行く事が出来ません。もし国境の橋が出来てしまいますと大統領府から自動車で10分でアルゼンチンに行く事が可能となってしまい問題になってしまうので敢えて架橋しないのでしょう。もしメルコスールが進展してEUのように往来がノーチェックになりここに橋が架けられますと双方が眠りから醒めたように活気が出て来る事は間違いないでしょう。特にアルゼンチン側にはほとんど何もありませんので急速に変化する事は間違い無いと思いますし、そのような未来は確実にやって来る事でしょう。そのような時代になった時にはアスンシオンは再び南米の中心として輝くのではないかと期待しています。

コリエンテス

アスンシオン
コリエンテス市の詳しい様子は下記のページをご覧下さい。
コリエンテス市
その後、コリエンテス市はアルゼンチンの一地方都市となり、アスンシオン市はパラグアイの首都となりました。現在はコリエンテス市は人口30万人強、アスンシオン市は都市圏で二百万人に達する規模に成長していますが、セントロ・旧市街地に限れば大体同じ大さです。コリテンテスは要するにアスンシオンをもしアルゼンチンにしたらどのようになるのかという事を示しているように見えます。コリエンテスを訪問して感じたのは実に似ているという事で時々アスンシオンを歩いているのかと錯覚を起こす程です。コリエンテスの方が人口が少ない事もあってのんびりとした雰囲気があり、アルゼンチンのお洒落な雰囲気もあります。
一番の違い、コリエンテスを訪問した感じたのは河岸がしっかりと利用されているという事です。アスンシオンは河岸は不法住居の貧困層に占領されてしまっており、河岸を行く道路も無くほとんど利用されていないのに対してコリエンテスはしっかりと活用されています。河岸に沿って中央分離帯がある大きな道路があり、散策や河岸で遊べるようになっており、市民の憩いのスペースとなっています。道路の反対側にはレストランなどが多くあり魅力的な観光スポットとなっています。アスンシオンも河岸をしっかりと利用する事を考えるべきでしょう。もう一つ感心したのは歩行者専用の商店街がある事です。市民が歩いてショッピングや軽食喫茶を楽しめるようになっており、家族連れや若い人のグループで賑わっています。アスンシオンのセントロには歩いて散策して楽しむ場所はありませんのでこれを見ますとパルマ通りから自動車を完全に締め出し歩行者専用の道路にするべきであると思います。両都市を見る限りでは残念ながら計画的に住み良い都市にする知恵はアルゼンチンの方が勝っているように見えます。
コリエンテスとアスンシオンのもう一つの違いはコリエンテスでは対岸まで橋があり、アスンシオンには無い事です。アスンシオンの場合には反対側に行く為にはセントロから20キロも離れた橋を利用するしかありませんが、コリエンテスの場合には市街地の中心から直ぐに反対側に行く事が可能です。アスンシオンの場合には川幅がコリエンテスの半分しか無いにも関わらず橋がありません。これは国防上の問題からなのでしょう。アスンシオンセントロの反対側の南半分はアルゼンチン領となっています。要するにセントロからアルゼンチンに国境を跨ぐ橋を架ける事は左程難しい事ではありません。現在はアルゼンチンに行くには対岸にあるセントロから直線距離で2,3キロの国境まで行くのに50キロ程迂回して行かなくてはなりません、そして入国には煩雑な手続きが必要でアルゼンチンに簡単には行く事が出来ません。もし国境の橋が出来てしまいますと大統領府から自動車で10分でアルゼンチンに行く事が可能となってしまい問題になってしまうので敢えて架橋しないのでしょう。もしメルコスールが進展してEUのように往来がノーチェックになりここに橋が架けられますと双方が眠りから醒めたように活気が出て来る事は間違いないでしょう。特にアルゼンチン側にはほとんど何もありませんので急速に変化する事は間違い無いと思いますし、そのような未来は確実にやって来る事でしょう。そのような時代になった時にはアスンシオンは再び南米の中心として輝くのではないかと期待しています。

コリエンテス

アスンシオン
コリエンテス市の詳しい様子は下記のページをご覧下さい。
コリエンテス市
パラグアイの人の夢は大パラグアイでしょう。現在は南米の中央に位置しているとは言えアルゼンチン、ブラジルが目立つ中で埋没しており、余り注目されていないパラグアイですが、「南米の元祖」特にラプラタ流域の中心という意識は強く持っているように見えます。大航海時代にスペイン、ポルトガルの人が南米に来た理由は何と言いましても金銀財宝を求めてでしょう。当初は南米に根付く事などは念頭に無くひと山当てる事だけを考えていたと想像します。スペイン領の南部南米の最大の関心事は現在のポトシに在る銀であり、これを求めて多くの人がこの地域にやって来ました。ラプラタというのは銀という意味、そしてアルゼンチンという国号も銀という意味ですので当時の銀を求める想いというのすさまじいものがあった事でしょう。多くの人が銀を求めてラプラタ河を遡り、アスンシオンを拠点にして更に河を上っていったのでしょう。アスンシオン市そしてパラグアイの開発は銀を求めての旅の途中、過程であり入植自体が目的であった訳ではありませんでした。その後ポトシへはペルーから探索していた人が到達してリマ方面に抜けるルートが確立しました。そうなりますとラプラタ流域の拠点は本来の意味を失い取り残される事となり土着化が始まり植民地化が始まります。最初から計画的な入植をした訳ではない地域の開発を目的としたものではなかった訳です。結果的にはパラグアイは現地が進み「パラグアイ人」という意識が強くなって行ったと考えます。
その後周囲との関係は余り芳しくなく、ブラジルからはバンデイランチという開拓者によって領土が侵食されこの為にヴィジャリカのように7回も引っ越しを余儀無くされたケースもあります。約200年前の独立当時は隆盛を誇り南米の先進国として名を馳せていました。更にはナポレオン、ナポレオン三世の影響があり、拡大主義に走りブラジル、アルゼンチンとウルグアイを巡る戦争を行って大敗し領土の半分と国民の多数を失いその後は現在に至るまで南米の小国に甘んじています。北半球全体を舞台にした第二次世界大戦と南米限定の三国戦争と規模の差はありますが、日本の第二次世界大戦とよく似ています。ただ異なる点も多く戦後日本は大いに経済発展を遂げた事に対してパラグアイは沈滞したままです。これは国民の質ややる気という問題よりも国際情勢そして地勢に拠る点が大きいと思います。日本の場合には米ソによる冷戦が始まり日本は米国側の最前線としての役割を担う事となりその為に意図的に米国は支援しまた戦争特需で潤い一気に経済成長を遂げました。これに対してパラグアイはアルゼンチン、ブラジルにとってはやっかいな存在以外の何者でも無く黙って「静かにしておれ」と考えられている存在です。この構図は現在も変化無くパラグアイ人の両国に対する不満に繋がっています。
パラグアイの分岐点となった三国戦争に勝っていればという思いは日本人が第二次世界大戦に対するものとは比較にならないと思います。戦争が勃発する際には双方に言い分があり、一方のみが悪いという事はあり得ないと思います。第二次世界大戦後、極東軍事裁判なるものが開かれて日本側で戦争を推進したとされる人達が戦勝国によって裁かれ死刑にされていますが、これは納得出来ないと考える人が多いのも当然です。まして男性成人の半数以上そして最終局面で大統領が戦死するという異常な事態の中で大敗したパラグアイ人の無念は相当なものがあったと思います。あの三国戦争で買っていれば現在はアルゼンチン、ブラジルと互角に渡り合えたのにという思いは相当残っているように感じます。コンセプシオン市の博物館に中央に飾られている地図があります。古地図にしてはいやに目立つ展示をしていると不思議に思い見ますと何と大パラグアイが描かれた地図でした。三国戦争の前の時代17世紀にパリで印刷されたものですが、三国戦争を戦う際にはこの地図の版図が本来のあるべきパラグアイと頭に入っていたのかも知れません。この地図のパラグアイは南米の中央の大国として存在し、首都のアスンシオン市は国の中央に位置しており、現在のクリチバ以南のブラジル南部三州、ウルグアイ全土そしてブエノスアイレスを含むアルゼンチン全土がパラグアイになっています。国は6つの州で構成されており、「パラグアイ」「グアイラ」「ウルグアイ」「パラナ」「リオ・デ・ラプラタ」などに分かれています。この地図の通りの国が成立していたならばブラジル以上の国力の南米随一の国となっていた事でしょう。パラグアイの人達の儚い夢ですが、現実となっていた可能性もあったと思います。ただこのような国になっていた場合には国の形が全く別のものになっていた事でしょう。どちらが幸せであったのか分かりませんね。

大きい地図は下記をクリックして下さい。

倉斗さんご夫妻は約30年前に設計の仕事でアスンシオンとエンカルナシオンに住んでいらっしゃいました。当時セントロ日系の前身に当たる「二世クラブ」の活動を支援された方です。今回は久しぶりのパラグアイ訪問との事で多くのメンバーが集まり歓迎会を開催いたしました。石橋会長が就任されて最初のイベントとなります。





日曜日の昼に行ってみました。開店して間もなくという事で評判を呼び大混雑でした。もうしばらくしますと少しは空いて来ると思われます。
入口に入りますと待合室となっており、大勢の人が順番を待っていました。世界でこのチェーンがある主な都市を記しています。ロンドン、クアラルンプール、ソウルそして東京の名前もあります。
値段ですが割合と高目に設定されています。ただ味はパラグアイ風にはしていないで多分オリジナルの味に近いものを出しているように感じます。多くのものは米国から持ち込んでいるようです。
http://www.geocities.jp/paraguaykuma/yakitori-html.htm






入口に入りますと待合室となっており、大勢の人が順番を待っていました。世界でこのチェーンがある主な都市を記しています。ロンドン、クアラルンプール、ソウルそして東京の名前もあります。
値段ですが割合と高目に設定されています。ただ味はパラグアイ風にはしていないで多分オリジナルの味に近いものを出しているように感じます。多くのものは米国から持ち込んでいるようです。
http://www.geocities.jp/paraguaykuma/yakitori-html.htm






テレビ・ワールドバザール21のサイトに掲載されて来ました「いまどき報告」
が打ち切りになるとの通告がありました。
不況の影響がここにも忍び寄っているのですね。毎月投稿し3年間36回の
連載です。最終回は「可能性の高いパラグアイ」と題して経済面を今までの
商工会の歩みに沿って取り上げてみました。
http://www.e384.com/imadoki/29paraguay/paraguay_36.html
最終回(第36回)
http://www.e384.com/imadoki/29paraguay/index.html
目次
が打ち切りになるとの通告がありました。
不況の影響がここにも忍び寄っているのですね。毎月投稿し3年間36回の
連載です。最終回は「可能性の高いパラグアイ」と題して経済面を今までの
商工会の歩みに沿って取り上げてみました。
http://www.e384.com/imadoki/29paraguay/paraguay_36.html
最終回(第36回)
http://www.e384.com/imadoki/29paraguay/index.html
目次
パラグアイの人にとってサッカーは生活の一部になっているように見えます。南米全体にサッカーが大好きでサッカー無しでは語れない状況と言えますが、北部ベネズエラ、コロンビアでは野球がありますし、ブラジルではバレー、アルゼンチンではラグビーも盛んで世界的なレベルになっています。ここパラグアイではサッカーだけで他に目立つスポーツと言いますとゴルフ、テニスで時々世界的なプレイヤーが出ますが、これは個人のスポーツであり、特殊な人達のものと言えます。サッカーは国民全体に支持されている唯一のスポーツであり、これ以外の球技は実質的には無いも同然、世界のレベルからはほど遠いのが現状と言えます。
サッカーに関しては以前からある程度の力はありましたが、最近は安定して来ているように見えます。ワールドカップはフランス、日韓、ドイツと3大会連続の出場、これは何でもアルゼンチン、ブラジルに次いで三ヶ国目なのだそうで、快挙と言えます。また、アテネオリンピックではアルゼンチンと共に南米代表として出場し、南米代表の二ヶ国で決勝を競い、銀メダルを獲得しています。実績から見ますとサッカーに関しては世界のトップレベルと言えます。
子供から大人まで集まりますとサッカーに興じます。ある程度の規模の会社になりますとメーデーの日は従業員慰労の日としてアサード(肉料理)を用意して楽しみますが、大体サッカーと一緒に楽しむ事が多いようです。テレビでスポーツと言いますとすなわち「サッカー」という感じです。男の子の多くもサッカーが大好きでサッカー選手になりたいというのが多くの男の子の希望のようです。実際に貧困層が貧乏から抜け出る最大のチャンスと言えます。サッカーのプロは多重構造になっており、一部から地域リーグまであり、多くの若者が夢を追っています。大半は夢のままで終わってしまうのでしょうが、突出した選手は上部リーグに駆け上がり、一部リーグで活躍すればアルゼンチン、ブラジル、メキシコ、更には欧州で活躍する道が開けます。
ワールドカップは国別対抗戦で、ファンが熱狂する大イベントですが、多くの選手やサッカー関係者にとっては選手の品評会でもあります。パラグアイを始め南米の選手の多くはここで活躍して自分の価値を高めて売り込むのが目的となります。チームの勝利よりもまず自分のアピール、南米のチームが実力がありながら負ける時にはチーム内での揉め事が原因の場合が多いのですが、一人が目立ち過ぎるとボールが来なくなり、相手に利する事となり負けてしまうのです。欧州で開催する時に南米が優勝出来ないのは欧州のクラブチームに自分を売り込もうとする気持ちが強くなり過ぎるからなのかも知れませんね。ワールドカップの時にはパラグアイは半分休暇状態になります。欧州で開催される時には大体勤務時間と重なりサッカーが気になって仕事に身が入りません。パラグアイの試合の時には完全に国がストップします。国全体が仕事をストップしてテレビ観戦をします。ただ、仕事をする者にとっては頭の痛い事です。この期間は効率が落ちる事を念頭に入れて仕事の計画を立てる必要があります。
ただサッカーが国民全体から好意を持たれているとは限りません。日本ではサッカーと言いますと洒落たスポーツという印象がありますが、南米では庶民のスポーツという見方が一般的です。表には余り出しませんが、嫌悪感を抱き貧乏人の下品なスポーツと見ている人も少なくありません。また女性で関心を持たない人も多いのが特徴で、あれは男どもの野蛮なスポーツと看做しているようです。それでも全体的にはサッカー一色なので、相手がどこのチームのファンなのか知っている事は重要です。多くは二つの人気チーム「セロ」と「オリンピア」のファンなので、若者が来ますと「セリスタ:セロのサポーター」か「オリンピスタ:オリンピアのサポーター」か聞くようにしています。打ち解けて話をするにはサッカーの話題から話を始めるのが手っ取り早いように感じます。
ある方に「パラグアイで観光はどうですか?」と尋ねられた事があります。個人的には観光産業はこれからは大いに有望だと思っています。ガイドブック等で「パラグアイは何も無いのでのんびり過ごしましょう」とありますが、それもひとつですが、本当に何も無いのでしょうか?これも製品と同じようにニッチ市場を目指せば可能性は大きいと思います。
外国人観光客と言いましても大別して二つに分けられるでしょう。一つはアルゼンチン、チリ、ブラジル等近隣諸国からの観光客そして欧米、日本・韓国等の北半球先進国からの観光客です。数年前までは近隣諸国からの観光客はかなり多く、長期休暇の時期には大型バスで多くの人がやって来ていました。近隣諸国からですと身分証明書だけでパスポートは不要で、気軽に旅行する事が可能であり言葉も同じで国内旅行の延長気分で旅行していると思われます。そしてその際の主な目的は買物でした。ブラジルからは大型バスが何台も連なってエステ市に入っていました。ブラジル国内と比較し魅力的な商品がずっと安く手に入るというので人気がありました。時代は変わり現在は経済のグローバル化が進行してブラジルにも世界から最新の製品が流入しており、商品の価格、品質の差は次第に少なくなり、専門の担ぎ屋さんを別として一般の観光客が買物を目的にパラグアイに来るケースは激減してしまいました。この為にエステ市は街の存続も危ぶまれる状況に追い込まれてしまいました。
先進国からの観光客は個人を別としますと、欧米からのエコツアー等が来るくらいです。具体的には英国・フランス等からチャコ地方のまだ手付かずにそのまま残っている自然を見に来るというものです。コンセプシオン等に数泊して雄大な自然を堪能するというものです。パラグアイ河の上流ボリビアとブラジルの国境付近はパンタナルの一部になっており、交通の便は余り無く行くのは大変でしょうが、そこまで辿り着けば大陸の雄大な自然があるのでしょう。ただ大陸の中央に在るパラグアイ、隣国アルゼンチン、ブラジルにも同じような景色がもっと大きく存在しており、ボリビア・ペルーにはアンデスの美しい山が在り、近隣諸国に対しては比較優位にはなりえません。最近はブラジルからドラード等を目的に釣り客が増えていますが、これも資源に限界があり、これ以上の大きな展開にはなり得ないと思っています。
いわゆる観光地として世界の人に見ていただけるものはかなり限られているのは事実です。ミッションとして有名なイエズス会の町の廃墟がトリニダー等数箇所あり、これは世界遺産にも指定されており、一見の価値はあると思います。しかしながらこれもパラグアイだけというわけでは無く、ブラジル、アルゼンチンの広い範囲に遺跡が残っています。その他に見て興味をひく場所というはほとんどありません。このような理由で余り観光には適していないとして日本からのツアーも無いのが実情です。
それでは何を見に来てもらえるかと言いますと、個人的にはパラグアイそのものだと思っています。レトロで牧歌的、他のラテン諸国とはまた違った雰囲気を味わってもらうのが良いと思っています。エコツアーを始め既成のパターンではどこも比較競争力が乏しくパラグアイに勝てる見込みは無いと思います、それであれば「パラグアイ」らしさを前面に出して行くことで活路を見出すのが上策だと思います。アスンシオン市は買物以外の観光で訪問する人は非常に少なく市内観光バスなどというものもありません。しかし街をあるくだけで初めて来たけれど懐かしいという雰囲気があります。またそこで生活している人を眺めるだけで楽しいものがあります。中内渚さんが街の様子を描いていますが、このような視点で街を歩くのは楽しいと思います。またアスンシオン近郊一日体験ツアーというのはどうでしょうか?アスンシオンでアルパ製作の工房を見学、ルケで金細工を見、アレグアで陶器、サンベルナルディーノで昼食を食べ、カアクペでパラグアイの信仰の中心である寺院を見物しその門前町の土産店を覗き、ピリベブイを経由してイタグアでニャンドゥティの店に立ち寄りアスンシオンに戻るというものです。途中でイタで日本の城を見物するのも良いでしょう。
アスンシオン以外では南部のイタプア県、日本、ドイツ、ウクライナ等の移住者がモザイクのように住んでいるイタプアなども訪問するだけで面白いと思います。ドイツ系のホテルで欧州を味わい、自動車で10分で日本の農協へ、そこからロシア正教の教会を訪問する・・このような事を作られたテーマパークでは無く本物が体験出来るというのは魅力だと思います。
そして北部パラグアイには雄大な景観とレトロな世界が広がっています。道路事情も悪く、バス等の公共交通も十分ではないので、旅行するのには苦労されるでしょうが、それだけの価値はあると思っています。北部を一周している時に頭に浮かぶのは「ここはどこ?今は何時?」という事です。世界の色々な場所を旅行していますが、北部を旅行しますと少なからずカルチャー・ショックを感じます。
アマンバイ県は奇岩が並び、そして3国戦争最後の激戦地となり、マリスカル・ロペスが戦死したセロ・コラ国立公園があります。ペドロ・ファン・カバジェロはブラジル側のポンタ・ポラ市と一体になっており、中心の通りが国境という非常に特殊な街です。国境に慣れていない日本人には奇異な感じがあります。コンセプシオン県は北部パラグアイの中心都市であるコンセプシオン市があります。ここでは牛馬がまだまだ中心であり、舗装道路もほとんど無く、渾然とした市場を見ていますと時間が経つのを忘れてしまいます。またサン・ペドロ県は実に多様性に富んだ県です。国内の人の中ですら「貧しくて何も無い場所」と思っている人が多いようですが、昔ながらの生活をしている地元の人、そしてドイツ系の人達はドイツ語ともオランダ語とも異なる「フリースランド語」なる言語を使って生活しています。宗教上の理由で自動車・テレビ等の機械を拒み、100年前のような生活をしている方達も居ます。このような場所に実際に足を踏み入れますと「本当にこれは現代なのか?そして南米なのか?」と頭が混乱してしまいます。
そして日系に関しては移住地の活用があると思います。ブラジルのホテルでは長期滞在者の為に日帰りツアーを用意しているケースがよくあります。イグアスの滝見物にフォス市(ブラジル)を訪問した観光客を相手にミニ日本体験ツアーというのは如何でしょうか?一日日帰りイグアス移住地観光というもので、イグアス移住地の日本らしさを見物してもらい、レストランで和牛のすき焼きを食べるというようなものです。特に新たな準備をしなくても今のままで十分に日本的ですので、ありのままを見物してもらうという嗜好です。
ただ前提条件としてインフラ整備が必要であると思いますが、それ以前の問題として空港で外国から訪問した人が気持ち良く出来るようにする事が肝要であると思います。税関はたかりの精神を捨て、ハイエナのように群がる荷物運びの連中を排除する事が必要でしょう。初めての国を訪問する時に誰もが不安を抱えるものです。観光局の職員が到着客の案内・世話をするぐらいの姿勢があれば良いでしょう。飛行機が到着してホテルに着くまで快適であればそれだけで国の印象が良くなり、リピターも増えるでしょう。一つのアイデアとして空港に馬車を並べホテルまでタクシーとして利用してもらうというのはどうでしょうか?時間は多分1時間以上はかかるでしょうが、タクシーと同じ料金であれば観光客は喜んで利用すると思います。ちょっとした工夫、アイデアを積み重ねれば魅力溢れる観光地に変身すると思います。
そして法律の整備も大切でしょう。例えば現在日本からですと90日間の観光は査証が要りませんが、留学や長期滞在の査証に関する法令の整備が不十分であると思います。一年そして4~5年の滞在査証を発行すれば長期滞在者やスペイン語等を勉強に来る方にもっと来ていただけるように思います。アルバイトが出来る、就労が可能な短期査証というようなシステムがあれば若者を惹きつける事が出来るのかも知れません。コスタリカのシルバー向けの政策などが参考になると思いますが如何でしょうか?
2008年日系ジャーナル新年号に掲載されました在パラグアイ日本商工会議所・会頭挨拶を転記します。
新年あけましておめでとうございます。皆様にはご健勝で晴れやかな気持ちで新しい年を迎えられましたことと、お慶び申し上げます。
さて、新たな年を迎えるにあたり、最近の会議所の動きを振り返り、今後の活動に関して簡単に述べて参りたいと思います。
2005年、2006年は会議所にとりまして大きな行事がまさに目白押しの状況でした。2005年5月に創立30周年記念式典を挙行し、同年10月には会議所メンバー約十名が大統領訪日に公式随行し「パラグアイ・ビジネスセミナー」を開催、2006年にはジェトロと当地の「パラグアイ国・商工省輸出振興局」(プロ・パラグアイ)等の共催で「ボリビア・パラグアイ・ウルグアイ三カ国展示会」が開催され、会議所自身も一出展者として参加、併せて「ビジネス・セミナー」の第二弾を実施、翌週には「横浜・ワールドビジネスサポートセンター」において「パラグアイ産品展示商談会」が開催され、これに出展し併せてビジネス・セミナーを主催いたしました。また、アスンシオンにて11月2日に移住70周年を記念して行われました秋篠宮殿下奉迎式典では副委員長を務めさせていただき、会議所は物産展示を担当いたしました。
昨年、2007年は年間を通じて特に大きな行事は無く、久しぶりに「通常の年」として腰を据えて活動を行って参りました。月に一度の月例定例会においては各分野の専門家に講師として来ていただき、パラグアイの経済活動に対して色々な側面から学ぶ事が出来ました。幾つか例を挙げますと4月にはコパコ社・PARAWAY NETインターネット部門部長-アルフレード・モレイラ技師にパラグアイのインターネットの現状と将来に関してお話をいただきました。世界的には高速通信が安価で利用出来る状況となっており、インターネットのインフラ整備の遅れ当地への投資に対する阻害要因になっている事は当事者としてもよく認識され、より高速で廉価なサービスを提供出来る様努力されている事がよく理解出来、他の国と比較して多少時間はかかるにしても確実にサービスが向上するものと確信し、安心しました。
また5月には米州開発銀行のプロジェクトで当地に滞在されていました関田宏一氏(中央開発株式会社)に「アスンシオン大都市圏の地下水について」説明していただきました。我々が住んでいるアスンシオン大都市圏で利用しているパティーノ帯水層の水は海に浮かぶ小さな船のようなものでそれを利用してアスンシオンの人達は生活をしている。現在でも収支を取ると地下水として流入する量よりも使用している量が多いので、このまま放置していると近い将来、枯渇、塩水化する恐れが強い、また生活廃水そして医療廃棄物などの有害物質が地下に浸透し地下水の劣化が懸念されるとの事でした。上下水道が充分整備されていない、廃棄物排水の処理が適切に為されていない事が懸念材料であり、今後のアスンシオン大都市圏では大きな問題になって来る事がよく理解出来ました。
また、10月には商工省通商局長ブルーノ・ウグ・デ・ベルモン氏に「パラグアイと日本の通商」についてお話をいただきました。両国の貿易統計そしてメルコスールと日本との貿易統計を独自に解析され、将来的に日本向けに輸出が増える可能性のある産品を指摘していただきました。パラグアイ政府の直接の担当者からの話であり非常に参考となりました。これらの毎月の講演議事録につきましては要旨を弊会議所のウェッブサイトに掲載しておりますので、関心のある方はご覧いただきましたら幸いです。
本年のもう一つの大きな活動して挙げられるのがパラグアイ日系社会の将来について具体的に方策を練り上げて行く事です。2月と8月の2回、日本大学国際関係学部国際文化学科・福井千鶴准教授並びにコンサルタント会社を経営されている前川昌道氏に講演を行っていただきました。お二人は長年ボリビア、コロンビアの日系社会を対象に分析研究をされており、福井先生には「南米日系人専門家養成と現地企業活性化プログラム」、前川さんにはボリビア・サンタクルス州の移住地の聞き取り分析をまとめた「移住地の発展と課題について」に関して講演を行っていただきました。従来の単純な出稼ぎから一歩進め、出来ればIT、通信の分野等今後更に伸びていく分野における専門家となる訓練を日本で働きながら行い、日本から帰国した後、起業出来るようにするべきであるというがその趣旨でパラグアイにおいても実施出来るのか今後の検討課題であると考えております。また、9月には福井先生はゼミで学んでいる日大の学生11名を引率され研修旅行に当地を訪問されました。会議所が受け入れ窓口となり、イグアス移住地、セントロ日系、日系福祉センターの皆様にご協力をいただき、それぞれの場所で若者同士の交流懇談会を開催し意見交換を行いました。日本で普通に生活する若者と当地日系の若者は双方大きな刺激を受けたようで、このような活動を今後も続けて参りたいと考えております。
米国での金融不安からドルへの信頼が揺るぎ、その影響で昨年の後半かつて無い程当地通貨グアラニの対ドル相場が上昇しました。石油が高騰しバイオエネルギーの需要増加で穀物相場が高留まりになっています、また、ブラジルでは大油田が発見され注目されています。これからも今までの常識を覆すこのような予想を超える経済事象が出て来る事でしょう。会議所では出来るだけ広範囲に情報を収集し時代の変化を読み取る努力を続け、また新たな課題に取り組み挑戦を行って参りたいと考えております。なお、ハマナスセンター内に会議所事務局があり、毎日平日の午後(13:30~18:30)桑折久太郎(こおりきゅうたろう)事務局長、井上はな事務局員の2名が勤務しておりますので、相談、問い合わせ等ございましたらお気軽にお訪ね下さい。
本年も引き続き、会議所の活動に対して広く皆様のご理解とご協力、ご支援を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
最後に本年が皆様にとりましてご健康で実り多い良い年になりますことを祈念し、新年のご挨拶とさせていただきます。
ある隣国出身の日系の友人と話をしておりましたところ、「ラテンアメリカの中でもパラグアイは特に男性社会だ」と言うのです。どういうことなのか訊いてみますと「まず未婚の母が多い、男が強いから"孕ませて逃げる"等と言う身勝手な行動が取れ、未婚の母が増えるのさ」という説明です。確かにパラグアイは未婚の母が多く、またそのような人を全く特別視しない風潮があります。そして「エレベーターに乗る時、チリでもブラジルでも近隣諸国であれば、女性を先に乗せるし、下ろすでしょう、パラグアイは全くそのような事は無い」と言うのです。確かにブラジル等では「レディー・ファースト」が徹底しており、女性よりも先に乗ろうものならおばちゃんに睨まれるのは間違いないでしょう。このようなマナーが出来ていないのは南米の田舎者のせいなのかも知れませんが、しかしもしかしたらそれだけでは無いのかも知れません。
アスンシオンで街角にあるお店などを覗いてみますと女性が働いて男性はテレレを飲んでいてサボっているという光景もよく目にします。どうやら女性が働いていて男性はのんびりとしていることには余り抵抗感は無いようです。勉強の面でもどうも同じような傾向があるようで学生、高校生などを見ていましてもさぼって余り勉強しない男性を尻目に頑張る女性が多いように見えます。日系社会も例外ではないようで女性の進学率の方が高いように見えます。これは歴史の影響もあるのかも知れません。130年ほど前の3国戦争で壊滅的な打撃を受け、男性の数が極端に少なくなり、数十年にわたり男性は希少価値である時代が続き、その影響が未だに残っているのかも知れません。一度染み付いた習慣というのはなかなか取れないのでしょう。
その割には他の国のような「殿方の遊び場」というような場所がありません。日本ですと例えば「新宿歌舞伎町」は一大歓楽街、当方などはこの街を歩いていますと、紫やピンクの妖しい光につい惑わされてしまいそうになります。ブラジルの中心都市、リオ、サンパウロにも内容は異なりますが、同じような商売をしているお店が大きな顔で営業をしており、歓楽街を形成しています。これに対してアスンシオンではそのようなお店はまず目にしません。一部に目立つ事無く存在しているのでしょうが、少なくとも歓楽街のような場所は全くありません。外出する場所としては家族もしくはカップルで食事を楽しむような場所で殿方だけでニヤニヤと・・というような光景は全く目にしません。これは本当のところは頑張っている女性が強いからなのかも知れないと思っています。表立って男どもだけで楽しみに行く様な雰囲気ではないのでしょう。
パラグアイにも当然の事ながら外務省があり、独立国家としての外交政策があります。パラグアイの外交政策の基本的な考え方は「時流に乗り、逆らわない」という事のように思います。独立した当初は独自の発展を遂げ南米の雄としてナポレオンのような帝国を目指していました。野望を持つ指導者の元、帝国拡大の為の戦争を起こし、その結果は惨憺たるものでした。戦争には総動員体制で臨み、男性国民の多くは死亡し国家は疲弊してしまいました。ブラジルの軍隊が首都アスンシオンを占領し戦争は終結、国土は半分に削られ、国民の数も激減しました。ここからパラグアイが学んだ事は流れに乗る、両大国との関係を重視して行くというものです。以来アルゼンチンとブラジルの両大国との外交がほとんど全てであり、両国の隙間を縫って生きて行くというのが基本戦略となりました。欧米も日本もその向こうに在る国、伯亜両国のその大きな存在が存在が全てでした。強い方に付く、利益がある方に味方する、経済もその隙を巧みに利用して行くというものでした。
大きな転機はメルコスールの発足です。メルコスールは当初は四カ国でスタートしましたが、基本的にはブラジルとアルゼンチンの同盟です。地理的にこの両国に依存しているパラグアイとウルグアイはこれに追随するしか道が無かったと言えます。ブラジルは自身が南米そのものであり、残りの弱小国家はブラジルに従っていればそれで良いと考えている節があります。統合のコストを支払わすに自国を中心とする経済圏、要するに経済的には他の加盟国の植民地化を狙って来ました。パラグアイでは当然メルコスール反対の動きがありますが、そこは何となく時流に乗ることで凌いで来ました。ここに来て反米的な政権・ベネズエラが加盟し、メルコスールの中身自体が変化しており、必ずしもブラジルの意思だけでは動かない状況となっていますが、これはパラグアイにとっては望ましい事なのかも知れません。
パラグアイの外交の中で目に付くのは台湾の存在です。台湾・中華民国を承認しているのは現在世界で25ヶ国です。アフリカ、太平洋の小島、そして中米・カリブの国がほとんどでパラグアイは南米唯一の国です。ある意味では一番まともな国家なので、台湾政府は大事にしています。数年前に国会議事堂が建て替えられましたが、これも台湾が資金援助しました。国権の最高機関である国会を他国の資金をあてにして建てるというのは如何なものかと思いますが、パラグアイでは「いただけるものは喜んでいただき、使えるものは使いましょう」という姿勢があり、特に問題にはされないようです。台湾政府は国際的な援助のルールを超えて例えば省庁のランニングコストに当たる部分にまで資金援助しています。では何故台湾承認国なのか、という事ですが、歴史的に反共であった事が挙げられると思います。1989年まで続いた独裁的な政権にとっては反共を看板に掲げ、冷戦下で親米をアピールした方が徳であったからだろ思います。冷戦終結と共に独裁的な政権も終わりを告げましたが、現在に至るまで同じ政党が政権を維持しており、基本的な構造には変化がありません。お金を出して支えてくれる国家と断行する事など考えてもいないでしょう。経済的には大陸の中国政権とも既に密接に繋がっており、今更ここで断行して中国と国交を締結しても利益は少ないと見ているのでしょう。中国の狙いは資源大国であるブラジル・アルゼンチン、ベネズエラであり、パラグアイに特に関心を寄せる事は無いものと思います。ただし、ここで問題となっているのはメルコスールと中国との自由貿易協定・FTAです。メルコスールと中国とがFTAを締結するにはパラグアイが邪魔になって来ます。国交も無いのにFTAを締結する訳には行きません。今後中国政府の圧力は増して来るでしょうが、貴重な資金供給源となっている台湾政府と断行する事はまず現時点では無いと見ています。メルコスールと中国が関係を深める中でパラグアイと台湾との外交関係が一つの焦点となっており、パラグアイとしてもこれを利用して行く事でしょう。
日本との関係もパラグアイは逆らわない事が基本となっています。パラグアイは貰い上手な国です。何か援助資金・物資を貰うとけなげに喜んで見せます。大げさに歓迎式典を開催し、相手に喜んでいる意思を素直に示します。パラグアイは多額の援助を日本から受け取っていますが、これに対する外交政策は巧みです。国際社会の場で日本が提案する事に対して直ぐに賛成して見せるのです。例えば最近では日本が常任理事国になるという事で国際社会に働き掛けをしましたが、パラグアイは真っ先に賛成をしています。日本に対しては常に「親日国」を示す事で多額の資金援助を受けて来ました。そして米国に対しても近隣諸国とは多少異なった政策を打ち出しています。ポピュラリズムの台頭で南米では反米左翼的な政権が次々に誕生している中で親米をしっかりと全面に出し米国に協力する姿勢を見せています。これの方が徳であり、利益があると見ているのでしょう。深く熟考して外交戦略を立てているとは到底思えないのですが、利のある方に付く、流れに乗るという基本戦略が成功しているように見えます。両大国に挟まれて時流を見る感覚は確かなように思います。












可愛い子も出てて「お」となりました(笑)そぱチャリティーコンサート私は震災当日渋谷駅でお友達と別れる間際に遭遇しました。帰宅難民になり、夫の会社で一泊しました。
被災地の方の苦労を思うと遠いパラグアイからの贈り物に心なごむことマダムピラール市ピラール(Pilar)とは、スペイン語で、’要塞などの支柱’という意味だったんですか!
私はアメリカのカリフォルニア州に住んでいます。カリフォルニアはメキシコ領だったよっちゃんラパチョこの花、ピンク、黄色、白と、どれも最高に綺麗です!!!
私もこんなに綺麗な’パラグアイの桜’を見てみたいです!!!
パラグアイと日本の友好親善の証として、この花木花里菜在パラグアイ日本商工会議所・会頭挨拶林 英二郎さん、面影はないけど
もしかしたら、神奈川県のゴルフ場にいませんでしたか?確か仕事はパラグアイに行ってたはずですながたさとみ五月晴れ・秋晴れの中、前原城と鯉幟お~、パラグアイのお城!!!! すご~い!!!
パラグアイ、アスンシオン市郊外のイタ市にある前原城への行き方を教えてください!!!熊本城主ルゴ大統領、当選から一年中南米諸国では、どうしてこのような丸出 駄目男(マルデ・ダメオ)ばかりが、大統領になるのでしょうか???
でもパラグアイのルゴ大統領に関する3つのチステ(ジョーoh, chaca chaca