パラグアイに行こう・ブログ

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毎年1月と7月の2回、パラグアイの日系社会持ち回りで少年野球大会が開催されています。今年は1月の大会がアスンシオンで開催されました。カテゴリーが2つあり、「小学生」が満13歳まで、「少年」が満16歳までとなり、暦年で計算します。今年の大会は少年が1995年1月1日~1997年12月31日まで生まれた子供でそれ以上は上のカテゴリーとなる 「青年」となり、1998年以降に生まれた人は小学生となります。人数が足りない等の理由で小学生カテゴリーの子を少年に入れる事は自由です。

開会式はビジャエリサにあるアスンシオン日本人会グラウンドで午前9時からパウロ・リチャードスポーツ大臣が列席される中開催されました。パラグアイ最大新聞「ABCコロール」においてパラグアイ野球連盟の大会として紹介されました。要するに日系の大会というだけでは無く全パラグアイの野球大会という位置付けです。

地方から来るチームは前日の夜に出発し夜中走り続けてやって着ます。到着すると直ぐに開会式、そして試合とハードな一日ですね。各チームで何語で話をしているのか傍で聞いてみますとアスンシオン、エンカルナシオン都市二チームはスペイン語、移住地のピラポ、ラパス、イグアスは主に日本語、そしてアマンバイはポルトガル語でした。ペドロファンカバジェロではスペイン語よりもむしろポルトガル語が日常語として使用されているのです。また非日系の中国系、現地の普通の方も増えて来ています。

優勝旗を見てみますと贈・岡林洋一とあります。岡林さんはヤクルトで1991年~1994年の間は毎年10勝以上を挙げ、チームのエースとして活躍されました。生まれはイグアス移住地で当地の少年野球で活躍され、14歳の時に高知県に引っ越しをされ、高知商業、専修大学を経てヤクルトに入団されました。1992年は15勝を挙げ西武との日本シリーズでも大活躍、その粘りは「パラグアイ育ち」にあるとされ、テレビの中継では「パラグアイの岡林」とのコメントを受けていました。時にはスペイン語で寝言を言っていたという逸話もあり、同世代には「パラやん」と呼ばれていたそうです。現在はヤクルトのスカウトとして活躍されています。ここに参加している少年たちの大先輩で、この中から第二の岡林が出て来るかも知れませんね。

大会は2日間の日程で行われ、初日の夕食は歓迎会となります。各地から集まった選手、父兄、関係者が一堂に会する大食事会です。初日ビジャ・エリサの日本人会グラウンドを使用したのはここで歓迎会を行う為でもあります。ただ翌日の少年の試合は朝7:30からで、試合が行われている時には既に準備にかからなければなりません。アスンシオンチームの選手の父母だけで準備を行うので本当に大変です。お父さん達はアサードを準備します。通常のアサードを焼く場所だけでは到底足りないのでアサードを焼く器具を幾つも並べての作業です。この日は最高気温が40度近くにまで上昇、その中でのアサードを作りは大変です。

初日はビジャ・エリサに在るアスンシオン日本人会グラウンドで開催されましたが、広さの関係で少年はカピアタにある天理教のグラウンドで開催されました。フェンスもある本格派の球場です。アスンシオン少年チームは選手が10人なので小学生を4名入れています。少年は小学生のカテゴリーでは参加しなかったアマンバイチームも参加し、7チームが2つの組に分かれて戦いました。第一球場ではアスンシオン、ピラポ西、アマンバイの3チーム、第二球場ではラパス、エンカルナシオン、イグアス、ピラポ東の4チームが戦いました。それぞれの勝者が最後に決勝を行いイグアスチームが優勝を飾りました。

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(写真)アスンシオン少年チーム


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(写真)アスンシオン少年チームの攻撃

少年野球・アスンシオンチーム





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